街の中心地だったファランポーン駅
今でこそバンコクの町の中心はサイアム等のスクンビット通り沿いに移ってしまいましたが、戦前から、少なくとも戦後のバンコク都市開発が行われるまでは街の中心は間違えなくファランポーン駅とその周辺でした。MRTも地下鉄も無かった当時、公共交通手段といえばバスであり、市街を網の目のように走るバス路線はファランポーン駅で結合しました。当時の街のターミナル駅であったファランポーン駅(勿論バンコクと郊外を結ぶ長距離列車の駅としては依然としてファランポーン駅はバンコクにおける唯一無二のターミナル駅です)周辺には旅行代理店や大手企業が軒を連ね、飲食店も賑わいを見せました。戦前から続く老舗がこの地区に多いのも嘗てこの付近が活気だっていたことを示す良い例でしょう。因みにバンコクで戦前から続く最も古い日本料理屋はファランポーン駅地区にあります。
夜のファランポーン駅 嘗てはバンコクの中心地だった
駅付近、特に川を隔てて西地区には戦前の建物が多く残る
ジュライ・ロータリーにはバック・パッカーのための宿が軒を連ねた
当時、ファランポーン駅前は超一等地であり、この地区に立ち並ぶホテルは宿泊料が非常に高額でした。まだ格安航空会社が無い時代、世界中の貧乏旅行者は航空券代を削る代わりに宿泊代を削りました。そんな彼らは当然ファランポーン駅目の前にそびえる高級ホテルに泊まれる訳がありません。(カオサン通りがバックパッカーの聖地として成長を遂げるのも80年代に入ってからです。)そこでそんな貧乏旅行者の宿泊の中心地となったのがファランポーン駅の西側の川を隔ててあるジュライ・ロータリー地区なのです。ファランポーン駅から歩いて10分程度のこの地区には当時日本人に大変有名であったジュライ・ホテル、台北旅社、楽宮ホテルが軒を連ねていました。谷恒生著『バンコク楽宮ホテル』も正にそんな時代のジュライ・ロータリー地区を舞台にした小説です。小説の中にも出てきますが、当時からこの地区は覚せい剤を売る売人や、薬物中毒になりそのために体を売る少女の巣窟でした。日本人を相手に少し多めの小銭を稼いできた彼女達ですが、日本人を含む外国人格安旅行客の中心がカオサンに移ると付近の売春市場としての質は落下。ベトナム戦争の影響でパッポンやソイカウボーイ等の歓楽街の発達も相まって質の高い女子は活動の場所を移して行きました。残ったのは歓楽街での職を得られず路上に立ち続けるしか選択肢が無かった少女達です。
駅前通りを川を隔て西に進む 歴史を感じる建物が多い
旧ハーレム 現クレオパトラ 場末のソープは一回1500バーツ
通りを隔てた歩道に座りこむのが売春をする少女達
三菱を思わせる企業ロゴは明らかな日本パクリか?
西に進むとロータリーに行き当たった
ロータリーから来た道を振り返る
有名なジュライ・ホテル
覚せい剤に浸る日本人を対象に
何度も警察の摘発を受け現在では廃業している
当時治安の悪かったロータリーも今ではすっかり綺麗に
サッカーボールで遊ぶ子供達もいた
ロータリーの交通量はかなり多い
薬物の売人らしき怪しい人影は見当たらなかった
300バーツで春をひさぐ少女達
ジュライ・ロータリー付近がバンコク地区で売春の底値であることはおそらく間違えがありません。300バーツ(約1000円)は、間違えなく現地人向けの価格なのだと感じます。そもそもこの地区を一人で練り歩く外国人を私は一度も見たことがありません。(何度かこの地区には足を踏み入れていますが、付近で外国人は私だけでした。)立っている売春婦も40代くらいのオバサンばかりです。もちろん中には若い娘もいない訳ではありません。未成年でお小遣い稼ぎの感覚で、お店で客を取るのは無理だけどここでちょっと立つ位なら・・・という感じの娘もいます。(勿論そういう類の娘でもっと効率良く稼ぎたいと考えるとテーメーカフェを知りそちらに行く訳ですが。)安さを第一に追求し、まだ擦れていない娘との出会いを求める諸兄には悪くないかもしれません。ただ、質と若さを求め、ある程度自分のタイプを選びたいというのであればわざわざジュライ・ロータリーに行かず、おとなしくテーメーカフェやGOGOバーに行った方が効率が良いでしょう。
ロータリーの近くの通りで客を待つ売春婦
やはり年齢は高めだ
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